西洋占術の背後にある思想 -プラトン主義

時代の変化とともに、人々が「占い」に求めるニーズも変わってきているように思います。

単に「吉か凶か」といった単純なことだけではなくて、

人生の意味はどこにあるのか?
人は本来どう生きるべきなのか?
人生の本当の目的は何か?
人は何のために生まれてくるのか?
この世における悩みや苦しみには何か積極的な意味があるのか?

といったスピリチュアル(哲学的・宗教的)な意識を背後に伴ったものが増えてきているように思います。

東京の渋谷や新宿で賑わっている最先端の「占い学校」の人気講座をのぞいてみると、西洋占術では「占星術」「タロット」「数秘術」「手相学」といった「占いそれ自体」の講座だけのみならず

「神智学」(=スピリチュアリズム思想)、「カバラ」(=ユダヤ神秘主義)、「ユング心理学」などの講座がなかなかに盛況を得ているようです。

つまり、診断分析・開運技法としての「占い技術」ではなく、占いの外部にあって「人間論・世界観・人生論」を提供してくれている「思想体系」が求められる時代になってきている、ということではないでしょうか。道具としての占い技術だけを求める時代が過去のものになりつつあるのでしょう。

西洋系占術の場合は、新プラトン主義から始まる神秘主義の歴史がありました。

近代以降になって「フリーメイソン」「薔薇十字団」「黄金の夜明け団」に流れ込み、錬金術や占星術を産み出す精神的土壌となり、19世紀以降になると「神智学」や「心霊主義」へと衣替えして「スピリチュアリズム」と現代では総称されるようになりました。

アメリカでは1960~1970年代にかけて、こうした神秘思想をバックにした「ニューエイジ運動」が盛んになりました。ここから胡散臭い新宗教神秘主義団体オカルト・サブカルがわんさと発生してくるわけですが、実際のところ「現代スピリチュアリズム」は過去の「新プラトン主義」の亜種亜流(変形版/衣装替え/二番煎じ)にすぎない、と私は考えています。

スピリチュアリズムに含まれる基本的トピック、理念・概念、枠組みを遡っていけば、古代ギリシャのプラトン、プロティノス以下の新プラトン主義ピュタゴラス学派やオルフェウス教にまで源流を遡ることができます。

オカルト・サブカルにどっぷりでスピリチュアリズムに傾倒している電波系の方たちは、往々にして自分たちの信奉しているスピリチュアリズムの源流(真のルーツ)を知りません。傍流思想の神秘主義にどっぷり浸かっていても、それを産み出す母体となった正統思想(ギリシャ哲学)を知らない人が多いように思います。

さてさて、西洋占術の世界では、占いの技術自体を越えて、もっと深い人生観の土台となる「人間論・世界観・人生哲学」に対する関心が高まっていて、占いを産み出す土壌になってきた「西洋神秘主義の歴史」にも目を向けようというニーズへと全体的に変わってきているのではないかと感じます。

それに比べると、東洋占術の業界にはほとんど進歩が無いように感じるのは私だけでしょうか?

九星気学、姓名判断、家相、四柱推命において、西洋占術の依拠している新プラトン主義(現代スピリチュアリズム)に相当・匹敵するほどの深い人間論・世界論を提供してくれる「思想哲学」が東洋占術のベースにあるのでしょうか?と言われると困ってしまう。

このあたりが、東洋占術全般がいまいち振るわない理由の1つなのかもしれません。(東洋占の背景思想としては、もちろん東洋思想=仏教・儒教・道教があるのですが、東洋思想についてはまた別記事でまとめて書いてみたいと思っています)

さて、西洋占いの業界では、現代スピリチュアリズムへの傾斜が大きくなってきているわけですが

「スピリチュアリズム」とはどんな思想なのか?
その世界観・人間観・死生観はどんなものなのか?

ということをざっくり紹介してみましょう。

もちろん、現代のスピリチュアリズムは、言ってみれば魑魅魍魎のカオスワールドで、胡散臭いものや危ないもの(妄想体系)もいろいろと紛れ込んでおります。

なので、全部を鵜呑みにする必要性はまったくありません。(ブラヴァッキー以下の神智学も、その半分以上の内容は嘘だと思っておりますw)

その中から正統哲学(古典哲学)に合致する比較的まっとうなトピックを選んでみると、以下のような構造になるのではないか、というスタンスで少しずつ紹介してみたいと思います。


<人間とはどんな存在であるか?>

古代ギリシャのソクラテス・プラトン・アリストテレスの時代から、西洋の人間観は、

目には見えない「霊魂」目にみえる「肉体」(物質)の2つの構成要素によって人間ができている、と考えてきました。
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物質や肉体はいずれ朽ちていくものであって永遠の存在ではありませんが、目にみえない霊魂は「永遠性」を持っていて、こちらの方が「人間の本当の主体」「真のあるじ」であると考えてきました。

喩えるならば、ゆるキャラの「着ぐるみ」を着ている人のようなものです。

着ている「ぬいぐるみ」に相当するのが「肉体」であり、その中身にいる人が「霊魂」です。

この「霊魂」はもともとこの世ではない「目には見えない世界」「霊的な世界」「叡智界」(イデア界)などと呼ばれる「上にある別世界」の住人なのですが、様々な理由と事情があって、一時的に「物質界」(この世)にやって来て、そこで生きることを余儀なくされています。

プラトンが『パイドロス』『国家』などで語っている譬え話によると

人間の霊魂は、理性という御者が、2種類の翼が生えた馬を御しているような姿であって

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かつて神の住まう「イデア界」に生きていて、翼の力によって飛翔して天球高く昇ることによって、天頂高くに輝く「真善美」なるイデア(真実在)そのものを眺め、そこから霊的な糧を得て暮らしていたのだが

霊魂における「暴れ馬」であるところの「欲望的部分」が、御者である「理性」の言うことを聞かないで、愚かにもイデアから正反対の方向へ、下へ下へと引っ張られて急降下することで、魂の翼(飛翔力)が失われて、天の高みから落ちて、土の固まりである「物質界」にまで落ち、この「肉体」を宿とするはめになってしまった。

それが、この地上(物質界)における人間の生なのである、と言うわけです。

古代ギリシャ哲学の世界観※では、この世の人生とは「仮の宿り」にすぎないのです。この世は「霊魂」にとっては本来所属する世界(ホームグラウンド)ではありません。ホームではなくアウェイなのです。

古代ギリシャ哲学では、肉体・物質・質料とは「魂」(ソーマ)にとっては「牢獄」(セーマ)のようなものだ、と言います。(ギリシャ人の語呂遊びw)

本来はイデア界(あの世)で自由に飛び回って「イデア」を観ていた霊魂が、物質=肉体という窮屈な牢獄に閉じ込められて、本来の霊的な自由性を発揮できないでいるのですから、好ましくない状況です。

そこで、ピュタゴラスやプラトンたちは、霊魂が「肉体の呪縛」からスムーズに解放されて、飛翔してイデア界へと帰って、本来のあり方を回復するための方法論としての「哲学」を創始したのです。

この世あの世(天国)というふうに、プラトン的な世界観は、後のキリスト教の世界観にも親和性があり引き継がれていきます。

このように、霊と肉を異なる原理として区別する考え方を「霊肉二元論」と言います。現代的にいえば、精神と物質、理性と感覚、心と身体、といえば分かりやすいでしょうか。

人間存在を分析すると「霊的な要素」と「物質的な要素」に分かれます。

「霊魂」と呼ばれるものの内部にも、
純粋な精神性そのもの(霊)である「理性」と、
肉体に近い部分である「意志」や「欲求」などの区別があります。

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人間を最も高貴に人間たらしめるものは、魂の中にある「理性」(ロゴス)であると古代ギリシャ人は考えました。

「理性」には「感覚」「意志」「欲求」には無い「特別な力」があります。

「理性」だけが「真理」(イデア)を把握することができるということです。

例えば、石ころが落下するのを見ても、肉体の目(感覚)では「ああ落ちているなあ」と認識するだけですが、「理性」はなぜ石ころが落下するのかという原理や法則まで見きわめることができます。

数学や幾何学は、物事をたんに「感覚」で眺めているだけでは生まれません。

現象の背後にある法則性を「数字」という原理によって把握していくのが「数学」(物理学)です。

これは「理性」だけが認識できる真理です。感覚や意志や欲求という精神の他の領域にはこのような認識能力がありません。

理性の目によって現象の奥に隠れている「世界の本質」「宇宙の法則」を知ることができるのは、人間だけであり、動物にはできないことです。人間の霊魂には「イデア」を観想する「理性的部分」があるのです。

単に「肉体の目」(感覚)で眺めているのと、「理性の目」(魂の目)で現象の背後にある「本質や原理」を見抜いて悟ることは違う、ということです。

例えば、ある人が他人よりも不当に多くのものを得ることを「正しくない」と私たちが判断する場合、

その「正しさ」それ自体は、何か物質的に目に見えるモノではありません。

「正しさの原理」そのものは「目で見えず、手で触れられない」感覚の対象にはならないものですが、それを人間は「理性」によってのみ認識することができるのです。

このようにして、理性だけが把握できる「正しさ」「法則」「本質」「原理」のことを、プラトンは「イデア」(形相/けいそう)と呼びます。

何が正しくて正しくないかを決めるのは「正しさのイデア」であり、「三角形」を三角形たらしめる本質にあたるのは「三角形のイデア」です。

この世にある描かれた「三角形」はどれも微妙に歪んでいたりして厳密に言えば「完璧な三角形」ではありませんが、私たちはその不完全な三角形の像を見ながら「三角形のイデア」を理性によって想起することがきるので「三角形」である、という認識が成り立つのです。
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地上の事物は、こうした「イデア」(形相)にあずかることで、個物として成立している、というのがプラトン主義の世界観です。

そして、こうした「真理」「本質」「法則」なる「イデア」は、目に見える物質の世界に属するものではなく、本来はこの世を超えた「叡智界=イデア界」にあるのだ、とプラトンは語ります。

この世における「正しいこと」「善いこと」「美しいこと」「真実な知恵」は、すべて「正義のイデア」「善のイデア」「美のイデア」にあずかることによって、そのように「善く美しく正しく」あるのだ。

また、理性によって「善美なるイデア」を見ることができる人は、そのイデアを多く観ることによって、自らの魂もまた「清い善美なる者」になるのです。

しかし、肉体において生きている人間は「肉の目」で感覚的に見ることしか普通は理解できません。1つ1つの現象を裏側で成り立たせている「正しさ」そのもの、「善さ」そのものについては、「魂の目」である理性によって捉えなければ把握できないのです。

しかし、人間はこの世(物質界)で生きている間に、感覚や情動(欲求)といった肉体的な能力だけに頼って、それが全てであるかのように生きてしまいます。「この世の事物が全て」となり、自分が本来いたはずの「イデア界」(霊的世界)のことを忘却してしまうのです。

そうなると、もと居た「霊的世界」(イデア界)に帰ることが困難になります。

物質と肉体が全てである、目に見えるモノだけが全てであると思って生きていた人は、形のあるモノにしがみついて肉体とこの世からますます離れられなくなるのです。

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プラトンの譬え(洞窟の比喩)によると、この世の人間は、生まれながらに洞窟の中だけで生活していて、影絵を見て生活しているようなもので、影絵をまるで「実物」のように錯覚して生きているが、影絵(現象)を作り出している真の原因を知るためには、魂の視線を背後に向き直って光源(=イデア)を見る必要がある。それができる人は限られている。

「哲学」とは、魂の中の「理性」(霊的認識力)をフルに働かせて、目には見えない「イデア」「真理」をより多く見ることを助ける学問であり

霊魂の目である理性を働かせて。物質界の背後にあるイデアをより多く見極めることができるようなればなるほど、肉体(物質)の呪縛からは自由になり、魂が本来あるべき姿に帰還(飛翔)することを助けることになる、とプラトンたちは考えるのです。

つまり、古代において「哲学」とは「魂の解放術・霊魂の浄化術」だったのです。

地上に生きている人間たちは、自分たちの魂の中のどの能力を中心にして生きていくかによって、魂の進化度、魂の成熟度が違ってきます。

「感覚」と「欲求」だけに突き動かされて生きているだけでは、人間以外の動物(獣)とさして違いがありません

魂の中核である「理性」を開発して、目には見えない「イデアの世界」に参与することが多ければ多いほど、魂の成長は大きく、精神性が高度になり、浄化された純粋な霊魂になっていくのです。

以上は、プラトン哲学のほんの一部・概略にすぎませんが、

プラトン哲学が、西洋思想界に与えた影響力は甚大なもので、アリストテレスを含めた後世の哲学者たちは(デカルトカントヘーゲルにしても)、プラトンから多大な影響を受けつつ自分の思想を構築しています。

ゆえに「西洋哲学の歴史全体は、プラトン哲学の一連の注釈・焼き直しにすぎない」(by 20世紀の哲学者ホワイトヘッド)と言われるほどです。西洋の思想は、このプラトン哲学(ヘレニズム)とキリスト教(ヘブライズム)2つの柱があって、これらが交互に織り成して形成してきた、と言ってよいと思います。

というわけで、現代のスピリチュアリズムうんぬんの前に、まず全ての源流であるところの「プラトン哲学」を正しく理解しておくことが有益かと思います。

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by astro_suimei | 2018-11-28 07:39 | 人間論・人生哲学 | Comments(5)
Commented at 2018-11-28 21:38 x
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Commented by astro_suimei at 2018-11-28 22:32
> 藤さん
原命式自体は悪くはないと思いますよ。身中以上の命式です。庚用神ではありません。むしろ丁火が用神になりうる命式ですね。申戌で西方合、辰も庚金を強める働きをします。そもそも庚金はどこか1支にでも通根すれば身旺に近い性質を持ちます。

丁未までの大運は、命式になり火の官星が来て財官双美(また火金相剋)となり、製造業などで発展しやすい条件を備えています。

この命式は、天干に甲甲壬があって、大運で戊己土が来ても甲木によって制されて埋金の心配があまりありません。なので基本的には申酉に巡っても丁火(官殺)用神で良いのではないかと思います。ただ土の星が巡るのでそれまでに比べるとやはり波乱運となることは否めません。

身旺の度合いが強くなるので、自我を通して横暴になることを抑え、組織や他人に合わせて己を律していくことが求められますね。
Commented at 2018-11-29 19:05 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by astro_suimei at 2018-12-07 23:05
> 藤さん
原命式だと身弱寄りの身中程度にみればよいかと思います。巳午未に大運が巡り専旺で火星官殺が強くなったのでこの間だけは身弱になりましたが、

大運で申酉が巡れば、今度は急激な身旺になり、同時に用神甲木が己土干合で失われます。自己主張・良くない独立心・自己本位に歯止めが効かなくなるリスクが出てきます。今後は特に慎重に周囲を配慮しつつ、自己を律して生きていかなければならない運ですね。
Commented at 2018-12-08 20:27 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。


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