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運命をどう考えるべきか

世間では「運命」や「宿命」という言葉で、あらかじめ全部が決まっていて何も変えられないというイメージを持っている人が多いのですが、実際には何もかもが決まっているわけではありません。

命式は、その人の性格・価値観、思考回路、情動や欲望の方向性を示すもので、そこに大運・年運が関わってくることで化学反応のように様々な現象が起きてきます。

命式の偏りが大きいほど、忌神の作用に無意識に誘導されて運命の落とし穴に迷い込みやすいのですが、

本人がその構造(自分の癖や傾向性)を自覚して、用神の方向性でしっかり努力して、命式に潜在する「偏った傾向性」を修正するように努めれば「微差は大差なり」という格言のように、小さな努力改善の積み重ねによって運命の梶取りが少しずつ変化していくのです。

しかし、たいていは自分自身の考え方や行動の癖を、本人自身はまったく自覚していないことが多く、生まれてからこの方、それが当然(もっとも自然)だと思って生きているので何も考えず自らを振り返ることもせず「気まま」に生きていれば、命式の「偏り・歪み」のままに、忌神・悪神の作用に流されていきやすいのです。
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運勢と言うと、一般には「ツイている/ツイていない」というふうに、自分とは無関係にどっかから良い運や悪い運が勝手に降って沸いてくるようなイメージが持たれがちですが、

実際には、命式に存在している傾向性(忌神悪神)が、大運や年運で刺激を受けて、芽を出して悪い果実を実らせている結果にすぎず、後天運はそれを触発するにすぎません。

自分と無関係なところから悪運が勝手に降ってくるのではなく、自分自身の内側に「悪い事象」を引き起こす原因(種)がすでに存在しているわけで、

その意味では、自分がどのような思考をして、どのような行動選択を行ったのか、という「自業自得」の結果であることが大半です。

推命学では、同じ命式であっても、選択可能である最上の選択肢(状態)から、忌神悪神の作用にどこまでも流されて行き着く果ての最悪の選択肢(状態)まで、上から下まで何通りもの「運命の幅」があると考えています。

後天運の分かれ道・分岐点(大運の変わり目など)において、どの星を選択して、どの星に導かれて行動したのかに応じて、その後の人生展開に大きな違いが生まれてくるのです。

命式における「忌神」(その多くは月支の五行ですが)は、喩えるならば、美女に化けて甘い誘惑を囁く悪魔甘味で包まれた中毒性の毒まんじゅうのようなもので、非常に強い魅力・誘引力をもって、悪い性質や傾向性(考え方や言動)へと促す作用をしてきます。

身旺の命式では、悪神となっている印星・比劫によって、他人や周囲にまったく配慮しないで、自分の我意ばかり通そうとしたり、自己中心的に周りを振り回すように促します。

結果として、調子に乗って独立起業した結果すぐに自己破産したり、倦厭されて組織・世間から排除されたり、身内と財産を巡って骨肉の争いを繰り広げたり、といったことに陥りがちです。身旺だから幸せになるとは限りません。

身弱で財星大過している命式では、努力せず楽して稼ぎたいという欲心を起させ、愚かな選択をさせるように誘惑力をもって破滅へと引き込みます。結果として、多大な負債や事業破綻を起して首が回らなくなったり、男命は悪い女性に騙されて大きな傷を負ったりします。

女性の命式で、身弱で官星大過している場合、淋しさや孤独からとにかく男性(官殺)に依存したいという欲心が起され、本人を決して幸せにはしてくれないロクでもない粗暴な男ばかり選び取っては、家庭内暴力を受けたり、妊娠堕胎で身体と心に傷を負わせられたり、借金の保証人にされたり、といった不幸を繰り返します。

命式に数多くあって力量が大きい忌神・悪神は、非常な誘引力・魅力をもって、その命式に固有の「運命の落とし穴」へと導くのです。本人にとっては、その悪神の働きや方向性がとても「魅惑的に思える」「追いかけて手に入れたいと思う」のですから不思議です。

例えば、命式に金星が多くて悪神になっている人が、無意識のうちに鉄鋼・鉄道・車に関わる仕事に就いていたり、水が悪神になっている人が水商売や居酒屋のサービス業に縁ができやすかったりします。

力量が強く命式内に数が多い悪神・忌神に、なぜか強い興味や魅力を感じ、それを追い掛けたり、それを頼れば何とかなるんだと錯覚させるような中毒があります。

これに対して、命式の(悪神による)歪みや傾きを修正して、本来あるべき状態(日干が正常に機能して世の中の役に立つ姿)に戻すのが「用神」ですが、

もともと用神は命式内にわずかにしか存在していないか、あるいは全く存在しない場合も多く、自然自然にそちらの方向性を選ぶことはまずもってありません。「良薬は口に苦し」とは言ったものです。

よほど、本人が自覚して意識的に「悪神の流れに逆らって川を遡る」ような決意や努力をしなければ、単に流されて惰性で生きているだけでは、用神の活用(開運)にはならないのです。

しかし、たとえ命式内に「用神」が存在していなかったとしても、

用神の方向性で努力して、命式の偏った傾向性に歯止めを掛け、考え方や行動様式=生き方を矯正するようによく注意していけば、タイタニック号の航路が少しずつそれて「結果として氷山にぶつからずに済む」ような具合で改善していくことは可能です。

しかも、若ければ若いほど取りうる選択肢(可能性)や改善の幅が大きく、本人の努力が用神の示している適切な方向性に進んでいけば、来るべき悪運に備えて起こり来る事象を変えていくことが十分可能です。「鉄は熱いうちに打て」とはよく言ったものです。

しかし、50才や60才になってくると、もはや取り得る選択肢や改善策も少なくなり、さらには本人自身の性格や考え方も凝り固まってしまっており、もはや改善の余地がわずかしかないことが多いのです。

例えば、定年間近になって、浮気や不倫の相手に大金を貢いで負債で首が回らなくなりました。友人に誘われて儲け話に乗って共同で起業したものの事業失敗して多額の借金だけが残りました。といって相談に来たところで、運命の示す通りの「落とし穴」に完全に嵌り込んでしまい「時すでに遅し」でどうにもならないことも多いのです。

運命の分かれ道(天干地支の力量が大きく変化する分岐点)は人生上のあちらこちらに存在していて、それらのターニングポイントごとに、どのような意識で歩んできたか=どの星に主導されて行動してきたかによって、本人自身の人格も運勢も上下に振れながら大きく変化していくのです。

<良い運、悪い運をどう考えるべきか>

もちろん、大運などで「用神」が旺じる開運期になれば、本人があまり意識しなくても良い事象が起きやすくなり、本人にとっては「楽な運期」となります。

しかし、本人自身がこの期間に、悪神の示す傾向性をきちんと自覚して、用神の方向性に努力するような意識と主体性を持っていないとすれば、それは単に「ラッキーな期間」だったというだけで早々に過ぎ去っていくだけです。

なんとなく良い運気を消費して、楽しい時期を過ごしました、というだけで虚しく過ぎ去っていくだけで何も後に残りません。

一番肝心なところの本人自身が持っている悪神の傾向性や癖に対しては何ら修正が掛かっていません。命式内に含まれている忌神の毒性を処置することを怠っているのです。

用神・喜神が巡ってくる幸運期は、命式の傷や傾きや問題点(悪神の毒性)がうまく隠されて、表立って見えなくする「難を隠す作用」が働きます。

言い換えると、目先の楽しい事象に覆われてしまって、改善すべき問題点や課題が見えにくくなりやすい時期とも言えるのです。

その幸運期が通り過ぎてしまえば「元の木阿弥」になり、別の大運に入れば、もともとの運命の示す癖と傾きが再び発動して落とし穴に嵌り込んでいきます。

しかし、逆境運/不運期というべき時期には、命式の傾きや運命の癖が明確化しやすいわけで、不良な事象に直面することで、嫌でも自身の運命の癖や傾きと向き合うことなります。

こうした悪神が旺じる逆境運こそ、忌神のもつ麻痺的な毒に気付いて「毒抜き」(自己改善)に励むべき時です。

悪い運勢の時期に、たんに不遇を嘆いて、不平不満を言って、運命に絶望していても何のプラスにもなりません

そうした時期をこそ逆手にとって、命式の傾きや運命の傾向性をよく自覚することに努めて、自分の癖である思考法・行動様式に修正を掛ける用神の努力を重ねていくことができれば、その停滞期はただの悪い時期で終わりません。

集中治療室で持病の根治療法を続けたような効果が後になって出てきます。

その時期を抜けた後に、より良い結果をもたらす良い種を蒔くことができるのです。

一般的に、幸運期(用神の旺じる大運)はちょうどジェットコースターに乗っている時のようで、立ち止まって自分自身をじっくりと振り返ることもなく、楽しい楽しいと思っているうちに一瞬で通り過ぎてしまうものです。

はたまた悪い運気には、万事が思い通りになりにくく、ただ時間だけが長く感じられ、嘆きと絶望に打ちひしがれがちです。

しかし、それでは幸運期に「楽」を享受して、悪運期に「苦」を享受しているだけであり、運命の示すとおりに翻弄されているだけです。

「悪い運気」は命式に潜在していた問題点が洗い出される時であり、総点検をしつつ自分自身と向き合って命式の傾きを修正矯正していくことによって、かえって陰中の陽に転じて、幸福の種を蒔くことも可能なのです。

また、幸運期にはせっかく用神が活用しやすい時期になっているのですから、目先の楽しい事象にばかりにかまけて運気を消費するだけでなく、命式の癖や傾向性を修正するべく「醒めた意識」を持つべきです。

調子がいいから、何でも思い通りになっているからと思って、浮かれてやりたい放題を繰り広げていると、隠れて潜在している悪神の働きによって災いの種をあちこちにバラ蒔きがちで(用神の旺じる運の間は難を隠す作用があるため大事には至りませんが)幸運期が通り過ぎるとにわかにその芽が出てきて苦い果実を刈り取らされることになるのです。

推命学においては、幸運期や悪運期を、ラッキーでツイている時期、アンラッキーでツイていない時期、というだけの単純な捉え方はしません。

幸運の中にも後々の災いの種があり、悪運の中にも後の幸福につながる良い種を蒔くことはできるのです。

by astro_suimei | 2017-10-26 00:16 | 人間論・世界観