プラトンの死生観 -パイドロスの寓話-

魂の似姿を、翼を持った2頭の馬と、その手綱を取る翼を持った御者とが一体となって働く力、であると思い浮かべることにしよう。

さて神々の場合は、その馬も御者も、それ自身の性質からして善美なものばかりであるのだが、神以外の存在においては、善い性質のものと悪い性質のものが混じり合っているのだ。

われわれ人間の場合、まず第一に手綱を取るのは2頭の馬であり、1頭は命令をよく聞く美しく善い馬であるが、もう1頭の馬はと言うと、資質も血筋もこれとは正反対の性質なのである。この理由により、われわれ人間にあっては、御者の仕事はどうしても困難にならざるをえない。
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さて、翼の揃った完全な魂は、天空高く駆け上って、あまねく宇宙全体の秩序を眺めることができるが、翼を失った魂は、何らかの固体にぶつかるまで下に落下していき、土の要素からなる肉体を捕まえて、その中に住み着くほかなくなるのだ。

そもそも、魂の翼が持っている働きは、遥かなる高み、神の種族が住まう方へと翔け上らせ連れて行くことにあり、それは「神にゆかりある性質」すなわち「美しきもの、真なるもの、善なるもの」に類するものなのだ。

従って、魂の翼なるものは、これら真善美なる実在(イデア)によって育まれ、成長するのだが、その反対に、醜きもの、悪しきもの、つまり真善美とは反対の性質をもった諸々のものは、この魂の翼を衰退させ滅亡させるのである。

神々は整列された部隊を従えて、翼ある馬車を駆り、万物を秩序づけ、万物に力を与えながら、さきがけて天空を進み行く。この天球の内部には、あまたの祝福された光景、祝福された行路があり、幸福な神々の種族たちは、それぞれの与えられし任務を果たしながら、この幸多き旅路を神々につき従いながら巡り歩くのである。
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この幸いな行進についていくことを望み、天高く駆けて付いていくことができる者ならば、誰でもこの行進に参加することができよう。なぜなら、神々は寛大であり妬みというものが無いなのだからね。

しかし、この天の行進なるや、神々の饗宴と聖餐の時にいたると、彼らは天球の果てを支える高みの険しい路を登りつめていく。神々の馬車は、馬たちの力に均整があり調和されており、手綱を取るのも容易であるから、この険しい道のりを足どり軽く進んでいくのだが、我々にとっては苦難多き道のりとなる。

他でもないあの悪い性質を持つ馬が、御者によってきちんと立派に訓練されきっていなければ、どうしても下へ下へと地の方に傾いて、全体を引っ張り下ろすことしかせず重荷となってしまうのである。これは魂全体とって激しい労苦と抗争である。

不死と呼ばれる者の魂は、天の高峰極まるところまで昇りつめるや、天球の外側に進み出て、その背面上に立つ。回転する天球の運動は、そこに立つ魂たちを乗せて巡り運び、その間に、魂たちは天の外にある世界を観照することができる。

まことに、この天の彼方の領域に位置を占めるものこそ、真の意味おいて「ある」ところの存在 ―色なく形なく触れることもできず、魂の導き手である理性のみが観ることができる― かの「実有」(=善のイデア)である。

真実なる知識はみなこの「実有」についての知識なのである。それは、生成流転するような次元の事物についての知識ではなく、永遠不変であり常に同一である存在である。(⇒ 現象界イデア界の対比)

そして、もともと神々の精神は、穢れなき理性穢れなき真理によってこそ育まれるものであるから、いま久方ぶりに真実在を目にして喜びに満ち、天球の運動が一巡してもとの所に運ばれるまでの間、もろもろの真なるものを観照し、それによって魂の糧を得て多いに育まれ、この上ない至福を感じるのである。

こうして、天の彼方にある様々な真実在を観照し終えて、魂における饗宴と聖餐を楽しみ終えると、再び彼らは天球の内側に戻って、各々の住処へと帰っていくのである。御者たちは帰りつくや、各々の馬を飼葉桶に連れて行き、彼らに神食(アムブロシア)と神酒(ネクタル)を与えて養うのである。これが天界における神々の生である。

これに対して、我々の魂たちはどうであるかと言うと、各々の魂の状態に応じてまことに様々である。

最も良く神に付き従い、最もよく神に倣う善美なる魂は、御者の頭を上げてなんとか天外の世界を垣間見ることができ、回転する天球の運動によって運ばれながら、馬たちに煩わされながらも、なんとか辛うじてもろもろの真実在を観照する。
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また、ある魂は、時には頭を天外にもたげ、ある時には天球の中に沈み、馬たちが暴れるものだから、真実在のうちあるものを目にするが、あるものを見損なってしまう。

しかし、これ以外の魂はというと、いずれも上の世界を切なく求めるが、力及ばず、天球の下側から出られないままに、天球と共に一緒に巡り運ばれ、互いに他の前に出ようともがきながら、踏み合い、突き合いする。

そこに生じるのは、擾乱と抗争と辛苦であり、御者の不手際のゆえに、多くの魂がかたわ者となってしまい、多くの魂が翼を傷つき折られることになるのである。

これらの魂は、みな甚だしい労苦に疲れ果てて、真実在の観照によって魂が浄められ養われないままに、そこを立ち去って行き、仕方なく彼らは「思わく/思いなし=不完全な知識」(ドクサ)をもって身を養う糧とするしかなくなるのである。

さて、司法の女神アドラスティアの掟によると
いかなる魂も、この神の行進に随行しながら、真実なる存在のうち何かを観照したならば、次の行進の時まで禍を逃れて健やかにあることができ、また、この行進の機会ごとに常にそうすることができれば、永遠にその魂の幸福は損なわれないでいることができる

しかし、ひとたびこの幸いな行進に随行することができず、真実在にあずかり損なうことになれば、彼らは忘却と悪徳によって重圧を負うことになり、やがてこの重さに耐えかねて翼を損失し、地上に落ちるしかなくなるのである。

こうして地上に堕ちた魂の生について、女神の掟は次のように定めている。

こうして地上に生まれる魂は、最初の生においては、いかなる動物の中にも生まれることはない。(最初は必ず人間として生まれる)

真実在をこれまで最も多く見た魂は、真理を求める人、あるいは、美を愛し音楽を好むムーサ(芸術の女神)のしもべ、となるべき人間の種の中へ宿り、

第二番目の魂は、法を司り、統治に秀でる有徳な王となるべき人の種へ
第三番目の魂は、政治にたずさわり、財をなす人の種へ
第四番目の魂は、労苦訓練を厭わない体育家、あるいは肉体の治療にかかわる人の種へ
第五番目の魂は、占い師や何らかの宗教的儀式に関わる人の種へ
第六番目の魂は、創作家、詩、ほかの真似ごとを仕事とする人の種へ
第七番目は、職人あるいは農夫の生が
第八番目は、ソフィストや民衆扇動家の生が
第九番目は、独裁僭主の生が、それぞれあてがわれることになる。

これら全ての生において、正しく生きた者はより善い運命にあずかり、不正で悪徳な生を送った者はより悪い運命にあずかることになる。

地上へと堕ちた魂たちは、自分たちが元居たところの天界(イデア界)へ1万年の間は帰還することができない。それだけの長い時間が経たないと翼が再生しないためである。

しかし、誠心誠意に真理(イデア)を愛し求めた人の魂だけには例外が認められている。

こうした魂は、千年の周期が3回やって来た時に、もし3回とも連続してそのような愛知者の生を送っているならば、イデアにあずかること多いがゆえに彼の魂の翼がすみやかに再生され、およそ3000年目にして早々にイデア界に帰還することが許されるのである。ただし、このような生を連続して選び取る者は極めて稀である。

これ以外の魂たちは、最初の人生を終えると「裁き」にかけられ、ある者は地下の世界にある仕置きの場所において正当な懲らしめを受け、またある者は、天上にある場所(=幸福者の島/パラダイス)に連れて行かれて、そこにふさわしい生を送るのである。
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そして、また千年後に、いずれの魂たちも、次の地上の生涯を籤引きで選ぶために集められ、それぞれが求めるような生涯を選んで生まれることになる。そこでは、人間の魂が動物の生を選ぶことも、かつて人間だった者が、動物から人間に戻るということも稀な事例ではあるが無いわけではない。

いやしくも、これらの魂が一度も真実在(イデア)の片鱗すら見たことが無いのであれば、そのような魂は少なくとも、人間の生を選び取ることはできないであろう。

なぜなら、人間だけが有するものを知る働き(=理性/ロゴス)は、形相(イデア)に即して働くのであるが、これは、雑多な肉体的感覚から出発して、思考の働きによって統括され「単一なるもの」=(形相/イデア)へと進み行くことによって行われゆくのであるが、このことこそ、かつて我々の魂が、神々の行軍について行き、真にあると呼ばれているかの実在を少しでも垣間見たであろう、かのものを想起することに他ならないからである。

まさしく、このゆえに、真理を愛し求める者の魂のみが、魂の翼を持つことになるのである。記憶を呼び起こながら、常にかのもの(イデア)のところに自己を置くのであるから、人間はこうした想起のよすがとなる数々のものを正しく用いてこそ、完全な真理にあずかることができ、またそういう者だけが本当の意味で完全な人間となるのである。

ここまで話したように、人間の魂は、どんな魂であれ、生まれながらにしてかつて一度だけであっても、かの真実在を観てきている。もしそうでなければ、この人間という生物の中にはやって来れなかっただろう。

しかし、この世にあるものを手がかりとして、かの世界にある真実在を想起することは、必ずしも全ての魂にとって容易なことではない。

というのも、ある者たちは、かの世界を見るにしても、わずかの間、ほんの一部分しか目にすることがなかったであろうし、また別の者たちは、地上に堕ちてから、悪しき生涯を何度も繰り返してきたがゆえに、道を踏み外して、およそ正しくない方向に向い、かつて観たであろう諸々の聖なる事物をすっかり忘却してしまっているからである。

結局のところ、かの真実在の記憶を十分に持っている魂は、ほんの少数とならざるをえない。

「正義」といい、「節制」といい、そのほか、魂にとって貴重なものは多々あれども、この地上にあるこれらのものの似像の中には何らの光彩も無い。ただ、ぼんやりとした器官によって、辛うじて少数の人たちが、それらのものを示す似像にまで到達し、この似像がそこから模られた原像となるものを獲得するにすぎない。

# by astro_suimei | 2018-12-15 20:38 | 人間論・人生哲学


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